About us

“ミリタリア アドバイザース” militaria advisorsは造語です。

ミリタリーアドバイザーは軍事顧問のことですが、
“ミリタリア”は軍にまつわる骨董品を意味していて、ミリタリーアンティークのアドバイスをしていく意味で
このホームページを作りました。

私は2004年から、アドバイザースというベトナム物中心のミリタリーショップをWEB上で運営しています。

メルマガでキャンペーンやお得なお知らせを行っています。またメルマガ読者向けに貴重な古いカタログや資料本の画像閲覧サービスも行っています。
こちらにご登録ください。
https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=IRnMDpwluAs

それ以前から、イベント等でミリタリーアイテムの販売を行ってきました。
ショップを始めるまでの経緯を書いていきます。

きっかけ

1970年代のことです。
父の友人がハワイに住んでいた関係でハワイに家族旅行に行くことが出来ました。

その時泊まっていたホテルからすぐのところに陸軍博物館があり、ビーチなどにはいかず滞在中毎日そこに通っていました。
水着やアロハを着たアメリカ人たちがうろつく中で、まったく場違いな戦車や榴弾砲が並んでいて強烈な印象でした。

博物館の規模は小さかったのですが、その売店がものすごくて
ナチのヘルメットや米軍の2次大戦装備、衣類、ダミーカートリッジ、徽章類など
実物の軍装品がガラスケースに並べられ、大量に売られていました。
あとで友達に話しても、「まさか博物館で所蔵品は売らないだろう」
と信じてもらえなかったのですが、たしかにそこでお土産に20mmと12.7mmのダミーカートと装備品を数点買って帰ったので夢ではないと思います。
ドイツ軍のヘルメットは$25前後で、へこんだり穴が開いた当時のペイントのヘルメットが積み上げられていました。ジャケット類や勲章など全体的に非常に安かったと思います。

その数年後、中学生の時にハワイに訪れた時は博物館の売店は無くなっており、あまりのショックで
父に頼んで博物館の人に売店はどうなったか聞いてもらった覚えがあります。
するとすぐそばにミリタリーショップがあることを教えてもらい私の中では、売店が外に移転したと思っていました。

ショップの名は「Military Shop of Hawaii」でこちらも当時日本では見ないような各国の軍装品がたくさん売られていて、2次大戦のドイツやイタリアの銃剣が30~40ドル、2次大戦の各国ヘルメット類が30~50ドルポルトガルのリザード迷彩服やローデシアの迷彩服など、なんでこんなものがここにあるのか?というような品ぞろえでした。
私はM79の練習弾とナチの徽章類、1次・2次大戦の米軍装備や当時出たばかりのソルジャーオブフォーチュンという雑誌を買った覚えがあります。

ハワイ滞在中、1日に2回はここに通っていてせっかくハワイに子供を連れてきたのにほとんど軍装品店に居られて、親も呆れていました。

この店もそれほど長く続かず、さらにその数年後にはその場所が空き店舗になっていました。

今も博物館は同じ場所にありますので、時間があったら寄ってみてください。
ワイキキのホテル群から少しアラモアナショッピングセンター方向に歩いた芝生に囲まれた静かなエリアで、ビーチもすぐです。売店はありますが、軍装品は一切なくオリジナルプリントのTシャツやカレンダー、戦車や飛行機のプラモデルなどが売られています。

 

中学生の頃のアメリカ旅行

また父に連れられ
今度はサンフランシスコとロスアンゼルスに行く機会がありました。
1970年代の末頃だったと思いますが
あちらでどうしてもミリタリーショップに行きたくて
でも、実際にお店の場所を探す手段が無く
日本の軍装品店に汚い字で
「アメリカのミリタリーショップを教えてください。」
と手紙を出しました。

結果は…
当然返事無しがほとんどでした。

ところが。
ひとつだけご返事をくれた店があり
仕入れ先に使っているところは教えられないが、
ガンショップやサープラス店のあるストリートなどを
丁寧に紹介してもらえました。

紹介されたサンフランシスコの
ガンエクスチェンジに行ってみると、
軍用ライフルが99ドルで店の中央に
中古ゴルフクラブのように、100丁ほどずらりと並んでいて
自由に手に取ることが出来ました。
38式、99式、エンフィールド、Kar98など
2次大戦で使われた使い込まれた小銃が大量に売られていました。

壁に軽機関銃や対戦車ライフルも飾られ
ナイフなどは自由に買えました。

やる気のなさそうな制服警官が店内に
何人もたむろしていて銃を眺めたり、店員と銃談義
をしていたのが印象的でした。

そのうちの1人とうちの父が
すれ違いざまぶつかって
にらみ合いをしたので
かなり緊張したのを今でも覚えています。

この銃のデパートのような
大型店は、その後カリフォルニア州の
ガンコントロールが厳しくなり
閉店したと聞きました。

イエローページを使ってショップさがし

サンフランシスコに着いて、まずやったのは
イエローページめくりでした。
当時はアメリカでも
インターネットやパソコンなどはなく
ほとんどのホテルに分厚い黄色い紙の電話帳がありました。
まだ公衆電話が沢山あって(半分くらいは壊されてました)
それぞれの電話の下の棚にもイエローページという
電話帳がありました。

探し方にコツがあって、例えば自動車ディーラーや、カーパーツ
を探すにはautomobileで探します。
car shopでは見つかりません。

ミリタリー、サープラスショップでいくらさがしても
本当の軍の施設やオフィス向けの機材払い下げ会社しかなく
アーミーネービーストアというコーナーにまとめて
掲載されていました。

当時はデジカメもなく、コピー機を借りるところもなかったので
ひたすら住所と電話ろFAX番号をメモって
JALシティガイドという日本語版の市内地図と
現地の地図をみてディーラーの場所の検討をつけて
朝から徒歩で探し回りました。

サープラスショップはダウンタウンに多く道に酔っ払いが座っていたり、
意味もなく路上駐車の車の中を覗き込む人などがいて
かなり治安が悪い感じがしました。
ダウンタウンなので安売り衣料店も多く
今では貴重なリーバイスのジーンズが
山積みで、日本の1/3くらいの価格で売られていたのを
覚えています。

あとで現地ガイドに子供が一人で歩く場所ではない
と父親が注意されていましたが
父親が「これも勉強のひとつだ。怪我をして学ぶこともある」
と言い返していました。

こうしてガラクタ屋さんの中から
本格的なミリタリーアイテムを扱う店をピックアップし
帰国後手紙やFAXで取引を始めました。
また別の機会に書きますが、アメリカのサープラスショップ全盛期
は1950~1970年代で、このころは
その末期だったと思います。
その後連絡を取っていた店も次々に廃業していきました。

レンタカーで店さがし

中学生の頃、父と一緒にサンフランシスコに行ったときは
タクシーと徒歩で街を回りましたが、
そのあと家族でロスアンジェルスに行く機会があり
その時は、さすがに父に頼んで一日レンタカーで店探しをしました。
80年代の頭の頃でした。

ロスはサンフランシスコと違って完全な車社会で
街に歩いている人が少なく、また徒歩は危険と言われていました。
当時ナビは無いので、事前にイエローページや
日本の雑誌で仕入れた情報をもとに
英語の地図と日本語の地図を見比べながら
店を回りました。

基本的にサープラスショップはダウンタウンや
倉庫の多いエリアにあり、ロスの繁華街ではないエリアばかりでした。
店の前に路上駐車するのにも車上荒らしが怖い
と父が言っていました。

店主は白人の太ったお爺さん
というのもお決まりで、商品選びに迷っていると
よくアクビを連発していました。
でも、日本人の親子連れの客は珍しかったのか
あまり差別も受けず、フレンドリーに対応してくれる店主が多かったです。

この時買ったものは
当時は最新の車両搭乗員用のノメックス生地のジャンパー
SRU21/Pサバイバルベスト
ナイフ各種と小物類、それにミリタリー関連の雑誌類でした。
当時小さかったので、衣類はXSサイズがあるものを買っていました。

アメリカの雑誌広告で仕入れ先探し

アメリカのサープラスショップ巡りをするなかで
必ず買っていたのが雑誌でした。

当時(1970~80年代)はアマゾンはもちろん、WEBサイトも無いので
海外の雑誌は貴重(というより存在自体も知らない)で英語がほとんど読めなかったのですが珍しいので買って眺めていました。

日本に帰って、じっくり見るうちに
その中に面白そうな通販広告があるのに気づき
日本に売っていないものや、驚くほど安いものがあって
日本から通販で買えないものかと考えました。

当時は個人輸入とかメールオーダーといったものが
一般の人にはなじみなく、国内の通販でさえ「通販は良くない、危ない」といった
マイナスのイメージが強かったです。

しかしどうしても欲しい気持ちに勝てず、
封書にオーダーを書き、「日本までの送料を教えてほしい」
と、習いたての英文で何とか書いて送りました。
するとどのショップからもちゃんと返事が来て総額を教えてもらえました。

日本から送金する方法は
①銀行振り込み
②郵便局からの送金
③直接現金を郵送
などがあり、
別の機会に書きますがそれぞれデメリットがあるので大変苦労しました。

また、時代が進むとFAXでのやり取りもできるようになり
夜中に家の電話が鳴ったと思ったら海外からのFAXだった、
ということがしょっちゅうありました。

例えば1970年代後半は
ソルジャーズオブフォーチューン(SOFマガジン)
という雑誌が発刊されたころで


(表紙デザインもカッコよかったです。)
この雑誌は本物の傭兵向け雑誌で、編集者も
元傭兵や関係者などという物騒な本でした。

記事は本格的でしたが
広告は、武道具やミリタリー衣類、
マニュアルやサバイバルグッズなど
一般人が買えるものが多く実際輸入もできました。


SOFマガジンのBrigade Quarternaster社の広告です。
今は有名な通販企業ですが、1975年創業で当時は個人の小さなショップでした。

中休み

1980年代は高校に入り一時期ミリタリーからは疎遠になりましたが、高校の同級生が家に遊びに来たとき昔買ったモデルガンを見せたところえらくハマり、私も彼の影響でまたモデルガンを何丁か買いました。

私が最初に買ったモデルガンは(小学生のころですが)金属製のMGCのチーフススペシャル、次にいとこから買ったCMCハンドエジェクター、CMCブローニング380等でした。その後黒のプラスティック製が主流となりMGCのハイウェイパトロール、国際産業のハイウェイパトロールなどを持っていました。
そのころはマニアだった中学生の従兄にくっついて御徒町に通っていましたが、中田商店さんも変わらず繁盛しており当時タイガーストライプの小さいサイズのジャケットが1着2500円で
ボロ着のようにして大量に売られていました。

その後、7~8年間は部活や、バイクの免許、車の免許など他の遊びに忙しくてミリタリーからは遠ざかっていました。1990年代にかけて、日本はバブルといわれる時代に入っていきました。

そんな中でひとつ覚えているのが、1990年代初頭(私が22~23歳のころ)のフリーマーケットでの出来事です。

当時最大規模だった代々木公園のフリーマーケットに時々出店して、実家にあった衣類や雑貨を売っていましたがたまたま昔集めていた2次大戦~ベトナム戦争頃のポーチやベルト10点余りを持っていったことがあります。

するとこれまで若者やおじさんおばさんなどの客層とはあきらかに異質の、中年のマニアっぽいおじさんたちが群がり、あっという間に全ての商品が売れてしまいました。

思えば、この時が初めて売った軍装品を売った記念の日(笑)となります。

ただ、買われたからは喜んでくれていろんなお話をしてくれましたが、私が子供のころからコレクションしていた思い入れのあるアイテムなので少し残念な気がしました。この感覚はコレクターの方にはよくわかると思います。今は私も小さいディーラーとして商売させていただきていますが、この残念な気持ちがあるといいアイテムは手元に残しておき、悪いものから売っていく癖がつきます。

そうするとお客さんから見抜かれてしまうことがわかり、今は割り切って貴重なコレクションがそれを欲しがっているコレクターさんのところに渡ったらそれが幸せ、という風に思うようになりました。

文字だけのカタログでの仕入れ

1990年代に入り
雑誌の広告から手紙やFAXで
海外のショップからメールオーダー(通信販売)
で買い物を始めましたが、そうするとそのショップから
カタログが送られてくるようになりました。

カタログと言っても、写真やイラストの一切無い
「在庫リスト」
のようなものがほとんどで、
アイテムが何百、何千とならんでいて
そこからアイテムを想像し、
コンディションを予測しなくてはなりませんでした。

当然、想像と全く違うものが届くこともありましたが
海外送料を考えると、返品はできません。

当時私は中学生で、コレクターとしてこれらのカタログを
何週間もかけて熟読していましたが、
その後大人になってディーラーとして仕入れる際も
この熟読する体質が役に立ちました。

ちょうどそのころからインターネットが普及し
アメリカではミリタリーを扱うWEBショップがちらほら出てきました。

こちらは実際にあったアメリカのWEBショップの
1990年代のカタログです。

こんな感じでズラーっと商品名が数千点並んでいます。
クリックしても、それより詳細な説明はなく
例えば一番上の
Belt.Indv,Equp,M1956
はベトナム戦時のピストルベルトですが

あとの方には

こちらの一番下にあるように
Belt,Pistol,M-1956
と表記が変わります。

Pocket,Magazine Rifle
では何の事だかわかりませんが
M1カービンの15連マガジン用ポーチのことです。

このように、官給スタンプの表記と
ディーラーの癖を読み取ってオーダーする
という変わった技能が身に付きました(笑)。

WEBショップの時代になっても
かたくなにこのリストスタイルのカタログで販売するのは概して在庫が多く、またどんどん物が入ってくるので
いちいち写真にとってアップするのが面倒、という仕入れルートが太いディーラーでした。

いまは、さすがにこのスタイルのディーラーは
見かけませんが、1990年当時はそのようにして
仕入れる力の強いディーラーを選んでいました。

こちらは99年ごろスタートしたBrooks militariaの過去ログです。
当時としては画期的な写真でしっかり商品を見せるWEBショップでした。(残念ながらトラブルのため現在はお店閉じられています)
https://web.archive.org/web/20000408043100/http://www.brooksmilitaria.com:80/Uniforms/uniforms.htm

今でもこれらのディーラーさんで付き合いの続いている方は多く、ショップは閉じていても仕入れルートがあり、本物と偽物を見分けられるので非常に助けられています。

カタログオークションでの仕入れ

アメリカ、カンサス州のマニオンさんというコレクターが1970年代に
ビンテージもののカタログオークションを始め、その中に
ミリタリーカタログがありました。

それまで通販には慣れていたので
オークションもトライしてみましたが、
日本から参加するにはハードルが高かったです。

■難しかった点は
・電話でなくFAXでオーダーする。(時差と語学力の問題)
・当たり前だが落札できるかわからない
・送料が向こう任せなので思ったより高い
・小さなモノクロ写真で商品判断するので、がっかりすることもある
⇒返品はほぼ無理

■逆に楽しかった点は
・カタログとして見ているだけでも楽しい
・ショップでは売られていないような個人コレクションが出品される
・ロット販売で売られているものがあり、届いたときの楽しみが大きい

当時、日本からの入札には
現地の日本人の女性担当者が対応していて
この方の対応がかなり横柄で、日本語も怪しかったのを覚えています。
Manion’sのルールから外れると、かなり厳しくしかられました。
武器類などは問答無用で向こうでカットなどの加工を行い
ドリルで穴をあけるのに50ドル、など加工賃が上乗せされてきました。
たまりかねて英語で社長さんに「あまりに担当者がひどくて日本からオーダーできない」
と直接手紙を送りました。
そのせいではないと思いますが、数か月後その女性担当者から
退職のレターが来ました。

Manion’sは後にインターネットでもオークションを行えるように
なりましたが、私はそのころには撤退していました。
90年代に入り倒産してしまったようですが、末期はトラブルが
多かったと聞いています。

その後イーベイの時代に入ります。

Ebayを使っての仕入れ

余談ですが…
当時同様にManion’sを使われてい方々から
同じような体験談を頂きました。ありがとうございます!
なんであの会社がつぶれたのかわかる気がしました。
いいアイテムが沢山あったのになぁ~
残念

Ebayの話に入ります。

1995年頃にアメリカのネットオークション
”イーベイ”がスタートしました。
私がEbayを始めたのは1999年で(ちょうど日本のヤフオクが出来た年です)そのころから
フリマの延長のような気分でサムズミリタリ屋さんのイベントでの販売を始めました。

イーベイの特徴は、
アイテムを陳列し入札するまではイーベイの中ですが
一旦落札したら、後は売り手と買い手が直接交渉する。
というところで、マニオンなどのカタログオークションとは
全く違った苦労がありました。

まず英語のやり取りを自分でする。
また、国によって取引の常識が違います。
さらに当時は悪質な参加者もいて、詐欺にもあいました。

それでも一般個人が全く別の誰かと直接売買する、
というのは魅力的で、梱包の詰め物に
現地の新聞・雑誌や、庭の松ぼっくりが入っていたりで
アメリカやヨーロッパの雰囲気を味わえました。
そこからたくさんの
コレクターやディーラーとつながることができました。

私も10年位前まではイーベイで海外向けに販売もしていましたが
今はほとんど使っていません。

だんだん良い出物が少なくなった気がします。
また、私は仕入れ先として考えますので
毎回1点づつ落札して、出品者とやり取りし
送料を支払っていると完全に割に合いません。

2000年代初めにイーベイジャパンが出来て、
日本市場進出を計りましたが残念ながら
ヤフオクに完敗で、撤退しています。また再上陸の話があるようですのでウォッチしています。

国を超えての個人売買は、言葉の問題より
1、文化の違いからくる交渉の難しさ
2、郵便システム・送料
3、通関
の3つの壁があり
自動翻訳ができたからOKというわけにはいかないようです。

時代は重複しますが転機となった1990年代のベトナム出張の話に続きます。

はじめてのベトナム出張

私が初めてベトナムに行ったのは1996年で日本航空さんの関係の仕事をしていました。
当時ホーチミンへは関西空港からしか行けなかったのが、その年から成田発が就航し
その第2便に乗りました。
第1便はマスコミやJALの関係の方ばかりだったようで、私の乗った第2便は旅行会社や商社など
まさにベトナムで仕事をする方たちばかりで、機内でエビの養殖や冷凍の話で盛り上がっていたのを覚えています。

JALのオフィスや、国営の旅行代理店、観光名所などを回りましたが
当時は社会主義色がまだ強く、ガイド兼監視的な方と常に一緒でした。
そのガイドさんも出張の後半には大分打ち解けてきて、お父さんが南ベトナムの将校で
そのせいで家族はだいぶ苦労したという話をしてくれました。

戦争が終わって20年たっていましたが当時はまだタンソンニャットも小さい旧ターミナルで
滑走路脇にはバンカー(砲弾除けの飛行機用の壕)が残っており
田舎に行くといたるところにB52の爆弾による穴が池になって残っていました。
物乞いも多く、観光地に行くと必ず子供たちが群がってきて
ガイドさんが追い払っていました。

観光地といっても観光している人自体がほとんどおらず
またホーチミン市でも日本人の観光客は一人もいませんでした。

その時は仕事で訪れた一都市、といった感じで
ベトナムのミリタリーものにも興味が薄れていたので
出張から帰ってもあまり頭の中でミリタリーとつながるものはありませんでした。

きっかけはその数か月後、海外通販でカナダのショップからタイガーストライプのシャツやパンツを買ったことでした。
私が中学生のころには国内でタイガーストライプの実物を販売しているショップさんはほぼ皆無で
たまにコンバットマガジンに広告で紹介されていても非常に高かったのを覚えています。
お店で展示してあるものもきれいなものが多く、大きなサイズでアメリカ人が持ち帰ったものを日本に輸入したのだと思います。

そのカナダのショップは、例によって写真掲載のないリストだけのショップでしたが
タイガーストライプの衣類や米軍のリーフ迷彩の衣類が30ドル~70ドルぐらいと、非常に安い値段で販売していました。
かなり面倒なやり取りと手続きをしてカナダドルを送金してゴールドタイガー、タッドポールパターンなど
(その頃はこの呼び名はなく、ホームページにはライムグリーンにブルーストライプとか、グレー地にブラックのストライプというように記載されていたと思います)
10着ほどのタイガーが届きました。
どれも小さいサイスのユーズドでしたが実際に南ベトナム軍や、米軍の兵士に使用されいたもので
ネームテープが付いていたり、補修されていたりして、まさに昔見た本物の軍服であることを感じさせるタイガーストライプでした。

これらのタイガーを見たとき、ふとベトナムのことを思い出し
「現地に行けばまだ当時の軍服が残っているのでは?」と考えるようになりました。
そして90年代末に休暇を取って一人で3泊4日ホーチミンの旅に行きました。

その時現地の人に私が何を探しているかを伝えるために持参したのが先に紹介したBrooks militariaのホームページのプリントアウトでした。
これをカラー出力して大量に持っていき、現地でタクシー運転手、ガイド、シクロの運転手、市場の人などに聞き込みをしました。


先日書類整理していたら、20年前に持って行ったその時のコピーが見つかりました。価格は現地の人に見られたくなかったのでマジックで消していました(笑)。

ベトナムの街で軍装品募集

10人くらいの現地の人に、写真にあるような戦争中の軍隊物が見つかったら来てくれ、場所を指定し時間をずらして待ってみました。

当時は携帯を持っている人はほとんどいませんでしたし、家に電話がない人も多かったので(何よりベトナム語で電話で話されても全く分かりませんし)。

翌日集まったのが、ピストルベルト、ジャングルブーツのボロボロのもの、南ベトナムのベレー(市場で売っているレプリカ)のみでした。すべて買い取りましたが、ベレーは明らかに市場で買ってきたとわかるので、その人にはもう声をかけませんでした。

この方法を何日か続けると探せるルートを持っている人や、それに近い人が見えてきます。そこから別の人を紹介されて少ない確率ですがいいものを見つけるルートらしきものができてきました。

こう書くと簡単ですが、実際には3~4日の滞在を何度も繰り返し、ホーチミンのほかダナン、ニャチャン、ハノイ、ブンタウ、カントなどへも行き、数年かけてルートを作りました。当然何度も騙されたことがあり、旅行全体が空振りということもあったのでくじけそうになりましたが、たまに珍しいものが見つかるし食べ物もおいしいので観光のついで、と割り切っていました。

 

つづく・・・